パンと菓子の職人ノート

発酵種の種類をめぐる台所の旅。古い本と私のサワードゥ

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台所の瓶からはじまる発酵種の物語。古い本に導かれた小さな実験


古本屋で出会った名前たち

雨上がりの帰り道、私は路地の古本屋で一冊の分厚い製パン書を見つけた。茶色く焼けたページをめくると、そこに並ぶ見慣れない響きに目が止まる。ルヴァン、ライサワー、酒種。発酵種の種類という見出しの下で、文字は静かに時代の匂いを放っていた。紙の甘い匂いに鼻を近づけると、どこか酸味を帯びた香りが脳裏に立ち上がる。私はなぜだか、今夜から瓶をひとつ用意しようと決めていた。

家に戻ると、台所の隅に小さなガラス瓶を置いた。薄く曇ったガラスは、古道具市で買ったものだ。ここから物語を始めよう。粉と水、それだけの簡素な序章である。

サワードゥの歴史に耳を澄ます

古い本は教えてくれた。人は火を使い始めるよりずっと後、偶然の泡立ちに気づいたのだと。小麦の粉に水を混ぜ、放っておくと、空気や穀物の表面にいた小さな生命が息を吹き返し、泡を生む。古代エジプトの壁画に描かれた膨らむ生地は、その驚きを今も伝えている。長い旅路の間、サワードゥは人とともに移動し、袋の中で、壺の底で、各地の風土をまとった。名前は違えど、どれも暮らしの温度を吸い込み、土地の水と粉で声を変える。

地域に根づく発酵種の種類

ページの余白に鉛筆で書き写した名を、私は台所の明かりの下で読み上げる。どれも個性が強く、それでいて身近だ。

●フランスのルヴァンは、小麦の香りを前面に出す穏やかな酸味。生地にのびやかな筋肉を与え、焼き上がりに麦茶のような香ばしさを残す ●ドイツのライサワーは、ライ麦の深い旨みとしっかりした酸味。薄く切っても満足感が続き、チーズと相性がよい ●イタリアのパスタマードレは、甘い香りときめの細かさが身上。祝いのパンにも使われ、食卓を明るくする ●サンフランシスコのサワードゥは、海霧の街の物語を背負い、すっきりした酸味とクリーミーな香りをあわせ持つ ●日本の酒種は、米と麹の文化から生まれ、ほのかな甘酒の香りが立つ。白い生地に透明な艶を与える

どの名も、粉と水の比率や温度、粉の種類で姿を変える。発酵種の種類とは、単なる分類ではなく、土地と人の手つきが織りなす方言のようなものだと感じる。

台所で始める小さな作り方の実験

私はガラス瓶に全粒粉と水を同量ずつ入れ、木べらで混ぜた。粘度は蜂蜜より少し軽いくらい。指先につけると、かすかな甘味と生の粉の香りがする。蓋はきっちり閉めない。息ができるように、ゆるく載せるだけだ。

日記帳を開き、私はこう書いた。

●一日目 混ぜた直後は無音。台所は雨の匂い。夜、表面に小さな泡が一つだけ生まれる ●二日目 乳製品のような香りがかすかに。半量を捨て、小麦粉と水を足す。木べらが少し軽く動く ●三日目 泡が増え、表面がざわつく。耳を近づけると、微かなチリチリが聞こえる気がする ●四日目 香りが酸味寄りに。一度冷蔵庫で落ち着かせ、翌朝に室温へ戻す ●五日目 勢いが出る。瓶の側面に気泡の筋。混ぜると指が跳ね返される

この間に、全粒粉を混ぜると立ち上がりが早いこと、強力粉に切り替えると香りが丸くなることを知った。水はぬるすぎない方がよい。夜は冷えるので、瓶の下に厚手のまな板を敷くと温度が安定する。作り方と呼ぶには粗い勘だが、台所の時計と自分の鼻が先生である。

天然酵母の特性に気づく瞬間

天然酵母は気まぐれだとよく言われる。しかし本当にそうだろうか。私は瓶の向こう側に一貫した理屈を感じる。温度が低いと酸味が育ちやすく、温度が高すぎると香りが浅くなる。水分が多ければ呼吸はのびやかになるが、骨格はやわらかくなる。粉の種類が変われば、食べ物も変わるように性格が変わる。

例えば、同じ配合でもライ麦を少し混ぜた日は、泡が太く、音も元気だ。小麦だけのときは、香りがミルキーで、泡は細かく滑らか。どちらが正解ということではない。今日はこう、明日はこう。特性は気分ではなく、環境の言葉で話しているのだ。

小さな成功の朝

一週間が過ぎた朝、私は思いきって少量の生地をこしらえた。瓶の種をひとさじ、粉と水と塩で小さな玉を作り、短く休ませる。手のひらに置くと、体温で生地が呼吸を始め、指の腹に鼓動が伝わる。焼成中、オーブンの小窓の向こうで生地の肩がふっと持ち上がり、クープが開いたとき、チチッと乾いた音がした。

焼き上がったのは掌に収まる丸いパン。ナイフを入れると、細かな気泡がつながって、綿のような断面が現れた。香りは、はにかむように穏やかな酸。バターを少しのせると、乳の甘みと酸の輪郭が丸く重なり、口の中で静かな合唱がはじまる。私は台所の椅子に腰掛け、窓の外の雲を一つ見送った。

名前と私の距離

ルヴァン、ライサワー、酒種。あの紙面で出会った名は、もう遠い国のことではない。私の台所で、今日も瓶の中にいる。発酵種の種類という言葉は、分類表から生きた日記へと姿を変えた。やがて私は別の粉や水で新しい瓶を育てるだろう。地域や作り手によって性格が変わるといううんちくは、確かな事実として、匂いと音で繰り返し私に教えられる。

思えば、最初の一行は雨上がりの古本屋だった。物語はまだ続く。次にページを開くのは、今日の夜だろうか。それとも、明日の朝日が差し込む頃だろうか。瓶の中の小さな世界は、私にだけ聞こえる声で、次の一歩を促している。