パンと菓子の職人ノート

りょうがベビーカステラ専門店を開いて成功するまで

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りょうのベビーカステラ専門店「ころり」は街に根づいていった


りょうがベビーカステラの店をやろうと思ったのは、何か大きな夢があったからではなかった。むしろ逆だった。勤めていた会社を辞め、次に何をするかも決まらないまま、時間だけが過ぎていく毎日だった。駅前を歩いていても、商店街を抜けても、どの店もすでに誰かがうまくやっているように見えた。自分が今から入り込める場所など、本当にあるのだろうか。そんなことばかり考えていた。



転機になったのは、夏祭りの帰りだった。人波の向こうから、ふわっと甘い匂いが流れてきた。見ると、小さな屋台でベビーカステラを焼いていた。丸く焼き上がった生地を手際よく返し、紙袋に入れて渡す。ただそれだけの光景なのに、不思議と人が途切れない。子どもが目を輝かせ、大人もつい足を止める。りょうも一袋買って、焼きたてをひとつ口に入れた。やわらかく、やさしい甘さだった。派手ではないのに、ちゃんと人をうれしくさせる味だった。



「こういう店なら、自分にもできるかもしれない」



その思いつきは、最初は自分でも頼りなく感じた。だが、ひと晩寝ても消えなかった。翌日から、りょうはベビーカステラのことを調べ始めた。機械はどんなものがあるのか、どのくらいの規模なら始められるのか、イベント向きなのか、常設店でも成立するのか。そうして調べるうちに、ベビーカステラ専門店向けの機械や開業のヒントをまとめたページにたどり着いた。俵型や丸型で焼ける機械、コンパクトでも回転率を確保しやすい機種、香りそのものが集客につながることなどを読みながら、りょうは少しずつ現実の商売として思い描けるようになった。思いつきだったものが、初めて「やれるかもしれない」に変わった瞬間だった。



とはいえ、店は機械だけではできない。味がよくなければ、最初の一度で終わってしまう。りょうは家にあったたこ焼き器を出して、自分で焼いてみることにした。生地の配合を変えながら何度も試したが、焦げすぎたり、ふくらみが足りなかったり、甘さが重かったりして、なかなか納得できない。そんな時に参考にしたのが、たこ焼き器で作るベビーカステラのレシピだった。ホットケーキミックスを使った親しみやすい配合で、火加減や返し方の感覚もつかみやすい。りょうはそこを土台にして、自分の出したい味に少しずつ寄せていった。



何度目かの試作で、ようやく「これなら」と思える焼き上がりになった。焼きたてはふんわりして、冷めてもぼそつかない。甘さは控えめだが、もうひとつ食べたくなる。友人に食べてもらうと、「これ、屋台じゃなくてちゃんと店で売れる味だよ」と言われた。その一言に、りょうは背中を押された。



最初の出店は、地元商店街の週末イベントだった。大きな勝負はせず、小さく始めた。プレーンだけでは弱い気がして、はちみつ風味とチョコ入りも用意した。売れなかったらどうしようという不安は、店を開ける直前まで消えなかった。だが、焼き始めて十分もしないうちに、甘い香りにつられて人が集まり始めた。子どもが「これ食べたい」と言い、母親が足を止め、会社帰りらしい男性が「懐かしいな」と笑って買っていく。りょうは袋を渡しながら、胸の奥が熱くなるのを感じた。



もちろん、最初から全部がうまくいったわけではない。焼きムラが出て落ち込んだ日もある。行列ができて手が回らず、せっかく来てくれた客を待たせてしまったこともある。雨の日は売上が大きく落ちた。それでも、りょうはやめなかった。改良するたびに、昨日より少し良くなった。温度、返すタイミング、袋詰めの手順、待ち時間の見せ方。小さな工夫を積み重ねるたびに、店は少しずつ育っていった。



半年後、りょうは商店街の空き店舗を借りた。店名は「ころり」。気取りすぎず、覚えやすく、丸いベビーカステラにも似合う名前だった。ガラス越しに焼いている様子が見えるようにすると、通りすがりの人が立ち止まるようになった。香りが人を呼び、見た目が興味を引き、ひと口食べてまた買いに来る。その流れが少しずつできあがっていった。



りょうは今でも、店を閉めたあとにひとりで焼き台を拭きながら思うことがある。あの夏祭りの夜、甘い匂いに足を止めなければ、自分は何者にもなれないままだったかもしれない、と。大げさな成功ではない。でも、自分の焼いたもので人が笑ってくれる場所をつくれた。それだけで十分だった。



今日も「ころり」の前には、甘い香りに誘われた人が立ち止まる。ベビーカステラは小さなお菓子だ。けれど、誰かの足を止め、気持ちをほどき、もう少し頑張ってみようと思わせる力がある。りょうにとってそれは、商売の種である前に、自分の人生をもう一度動かしてくれた、小さなきっかけだった。